道化師の眼

道化師パックマンの日々のことがら
笑顔の素
昨日は、長野県南部に位置する伊那市を訪れて、ボランティア研究集会で講演やワークショップを担当した。定員を上回る思いのほか多くの方が参加してくれて、会場は熱気に包まれていた。講演後に行ったワークショップは120名くらいが参加してくれて、こちらも弾ける笑顔にたくさん出会うことができた。自分が行うワークショップの場合、個人の特性や表情をつかむため、50名くらいまでが適正だと感じている。だから、正直100名以上が参加することに抵抗を感じたのだが、人数の規模だけで「できる・できない」を判断することは間違いだとつくづく感じた。なぜなら、昨日の講座は、人数は多かったものの、本当に多くの人が積極的にレッスンに参加してくれて、密度の濃い内容となった。何事も人のやる気が不可能を可能に近づけるのだと思う。それから、もう1つ感じたのは、人は人によって勇気付けられ、元気の素を蓄えていくのだということだ。笑顔は人の心の中で増幅し、対岸の相手にも伝播するのだ。
| clown packman | - | 12:40 | - | - |
投稿解禁か?
投稿が途切れて、あっという間に半年以上が経過した。この間にもいろいろな出来事を体験し、たくさんの人との出会いから多くの刺激を得てきたが、どうしても投稿する機会を逸してしまった。一番の理由は何といっても、2年前から構想してきた大学院の論文執筆が大詰めを迎えていたことが大きいと思う。元々、自分はIT気質ではないため1日の中でパソコンに向き合える時間には限界があるのだ。しかし、ここ数ヶ月は人生の中でこれほど椅子に座っていた経験が思いつかないほどPCの画面に向き合い、論文を書くためにキーボードを叩き続けていた。そうなると、+αで日記を投稿する気持ちには到底なれなかった。けれど、ようやくその束縛から解放される時がやってきた。先日、締め切り期日に合わせてなんとか、論文を提出することができたのだ。臨床道化師として現場で考えてきたことや、矛盾を感じてきたことを文章として表現することは本当に難しい作業であった。けれども、自分の内面的な思考と深く対峙し、自説を打ち立てていくことは舞台製作や講演会などとは違った意味で産みの苦しみと喜びを感じることができて、非常にエキサイティングなことであった。これで、全てのことから解き放たれたわけではないのだが、まずはホッと安堵している。これからマメに投稿を行うと宣言できないのが苦しいところだが、また気が向いたところでボチボチ近況を紹介していきたいと思う。
| clown packman | - | 18:36 | - | - |
幸せな時間
クリニクラウンの活動にのめり込む直前に、やはり夢中になっていたことがある。
それが、住んでいた町で行っていた「協働のまちづくりを笑顔で支えよう」という市民活動だ。市民が主体となり、年代も、立場も、業種も超えてつながりあうことを基本スタンスに、地域の中にある様々な社会問題をポジティブに受け止め、協働という手法で乗り越えていこうと必死だった。この活動は、多いときには100名以上の市民が定期的に参画し、毎晩、白熱した会議や作業がくり返し行われた。私はこのまちづくりを通じ、阪神大震災の時に体験したまちづくりとは違う意味で、まちづくりの喜びと難しさを思い知らされたが、あれから6年ほどの月日を経て、あの足跡は決して無駄ではなかったなーとつくづく感じる出来事が最近あった。

つい先日、人生の中で生まれて初めて結婚式披露宴の司会という大役を体験した。この話を受けた後、何人かに「いままでに何組も担当してそうなのに・・・」と言われたが、今回が全く初めての経験だった。おめでたい話に水を注すなんて縁起でもないので、友人からお願いされたら、断るなんてもっての外!と、ものの本には書かれていたが、実際にいざ引き受けてみると、これがなかなかどうしてのプレッシャーであった。しかし、そんな思いよりも遥かに、新しい門出を祝いたい気持ちのほうが、勝っていてやはり受けてみて本当に良かったと感じた。先日めでたくゴールインした2人は、昔からの友人であり、同志であり、教え子でもあった。そんな2人が「笑顔は人を幸せにする」を合言葉に異なる年代や職業の人が集いまちづくりを活発にする市民活動の中で出会ったのだ。2人とも私にとっては、かけがえのない自慢の友だ。そんな2人が仲良く並び、結婚の誓いをたてている姿を眼にしたとき、そこには本当に幸せな時間が流れていた。笑顔は人を幸せにする。
この言葉とても当たり前すぎて、特別新鮮に映らないかもしれない。でもやはり人は幸せなとき、柔らかい笑顔でいるものだと思った。だから、あらためて新しい体験をプレゼントしてくれた2人に感謝をしたい。この前は素敵な時間をありがとう。そして、いつまでもお幸せに。
| clown packman | - | 18:36 | - | - |
僕はピエロじゃない。
つい2、3日前、関東の放送局で、自分のことがミニドキュメント番組で紹介された。別にメディアそのものに恨みがあるわけではないが、今までの人生経験を振返ると、あまりテレビ報道には良いイメージがない。そんな訳で今回も苦い体験をすることになった。番組自体は「生きる」ことをテーマに据えた賛同できるコンセプトだったのだが、ナレーションに登場する私の呼称がことごとく「ピエロ」で統一されていたのだ。人間の思い込みというのは本当に怖いし、1度できてしまった固定した印象というのは簡単に拭えないものだとつくづく実感した。今回の番組の場合、制作スタッフとの縁(取材期間)は半日という非常に短いものだったが、事前に渡した資料にも、取材期間中に交わした会話もたった一度たりともピエロという呼び方は出てこなかったのに、ディレクターにとってはあかいはなをつけて楽しいことをする人は、やっぱりピエロになってしまうわけだ。(ちなみに私は道化人生20年の中で、ピエロの呼称は1度も使用したことがない)できれば、事前に原稿を確認すればよかったが、今回は自分の詰めが甘かったと反省している。しかし、今回の一件で私はとても大切なことに気がついた。もしかしたら、自分自身だってこうした凡ミスをしていないだろうか?ということだ。人は一般的にどうしても、思い込みで相手を判断していることが多い。1度相手に対しての心象イメージが構築されるとなかなか払拭することは至難の業だということだ。そう思うと、自分もイメージ先行で相手に対しての苦手意識や得手・不得手を抱いているのかもしれない。やはり、気持ちの行き違いというのは往々にしてコミュニケーション不足から来るのだろう。今回自分が感じた嫌な思いを相手にさせないためにも、言葉がけや働きがけを億劫がってはいけないと強く思った。ちなみに、最後にもう1回言いたい。やっぱり僕はピエロじゃない。道化師なのだと。
| clown packman | - | 21:33 | - | - |
雨宿り
昨日、少し時間の余裕を見つけて、GW真っ只中の山中湖辺りをサイクリングしてきた。春爛漫で逆さ富士も、さぞきれいだったと書きたいところだが、季節外れの低温と厚い雲に阻まれ、富士山はほとんど見ることができなかった。まあ、大学に通っている時は、「今日も裏山の富士山がきれいです!」なんていうくらいの距離だから、見慣れているといえばそれまでだが、やはり日頃しないことをすると、こういうことになるんだなーとつくづく迷信に感心した。GW中といっても、平日の月曜日ともなると、ほとんど観光に来ている人はいなくて、完全にオフの富士五湖の表情だった。サイクリングといっても、最近自分の誕生日を記念して買ったミニベロ(タイヤの小さな自転車)を使ったものなので、本格的なスタイルとはほど遠い、なんちゃって的なものだったが、湖畔の風を切って走行するのは、なかなか気持ちが良かった。ところが、だんだんいつも「裏山」と言っている富士山の逆襲なのか?だんだん山から雲が流れてきて、雲行きが怪しくなってきた。やがて、大粒の雨が降り出し、なぜか急き立てられるように、ペダルをこぐこととなった。そんな折、峠の途中でいかにもドラマに登場しそうなバス停の小屋を発見し、そこで世に言うところの「雨宿り」をした。雨宿り・・・あなたは最近いつしたか覚えていますか?ひさしぶりの雨宿りをしながら、ふとそんなことを考えた。突然の雨に対して、闇雲に突き進むのではなく、雨が行き過ぎるまで、自然の意思に身をゆだねる。現代に生きる私たちは、ついつい自分のペースを大切にするがあまり、相手の声に心と耳を傾けることが苦手だ。そう、雨が降ろうと槍がふろうと(実際には槍が降っているところを見たことはないが)傘を持ったり、レインコートを着たり、自分なりの対処をして、なにがなんでも自分の予定を実行する。しかし、時には、待つことが時には大切な時期もある。今、世の中は混沌とし、暗いニュースが目前を覆っている。でもそんな時こそ、この暗い風潮が行き過ぎるのをやり過ごすような、先人たちの知恵・雨宿りの発想が大切なのかもと考えさせられた。挑むことも大事、でも自分が悪影響を受けないように気を配ることはもっと大事だと思う。そんなことを考えているだけで、雨脚は弱まり、またペダルを踏むことができたのだから。
| clown packman | - | 22:53 | - | - |
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